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| 幕府大棟梁・甲良家の人々 (一) |
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| 文 |
菊岡 倶也 (Kikuoka
Tomoya) |
建設文化研究所・主宰 |
今年は江戸開府四百年にあたり、東京の町を歩くとそれを知らせる幟が風にひらめいている。こんにちの東京の原型である江戸をつくった人々に敬意を表したい。
今回は、江戸幕府御作事奉行の配下で「大棟梁」を世襲した甲良(こうら)一門の人々ゆかりの「散歩」である。まず大棟梁(だいとうりょう)という「ポスト」について説明をしよう。
幕府のうち建設事業に関係する奉行のひとつに作事方(さくじかた)(奉行)があった。
江戸時代の建築の大半はこの作事方の作品であり、日本の古典的建築の伝統は作事方によって守られた。作事奉行の下に大工頭(だいくがしら)がいた。「大工さん」の長ではなく技術官僚の最高位の職名で、木原・鈴木・片山各家が世襲した。京都には京都大工頭がおかれて中井氏が世襲した。大工頭の下僚の大棟梁は、建築工事を直接指揮する最高技術官で、甲良、鶴(つる)、平内(へいのうち)の三家に、のち辻内(つじうち)が、さらに町棟梁の石丸(いしまる)家が加わった。大棟梁は世襲でそれぞれ設計指針書ともいうべき木割術を代々伝えた。大棟梁はデザイン担当の建築家であり工事監督もおこなう存在であった。
近江地方の堂宮大工であった甲良家が世に出たのは、最近のことばでいえば、織田信長をはじめ戦国大名たちによる構造改革があった。中世の工人たちは社寺や貴族による「座」の保護下にあった。座は商工業者たちの自由競争を避け保護する制度的枠組みである。保護の代償として工人たちには奉仕があった。中世の殻を破ろうとする戦国大名たちにとって独占かつ閉鎖的な座の仕組みは邪魔であった。座に属さない才能と覇気のある大工たちにとっても、家柄などにとらわれずに人材を各地に求める戦国大名は魅力的に見えた。
甲良宗広(一五七四―一六四六)はこのような時代に生まれた。甲良家では祖父光広が京都に出て建仁寺門前の大工の弟子となり「建仁寺流」を称していた。
甲良町は彦根(ひこね)市や八日市(ようかいち)市に近く、町の東部を名神高速道路と国道三○七号が通り、東海道新幹線も近くを走る。国宝の西明寺本堂、三重塔など文化財も多く甲良大工の伝統が残る町である。築城の天才といわれた藤堂高虎も甲良の出身である。
二十三歳となった甲良宗広は慶長元年(一五九六)、伏見で徳川家康邸の造営に従事し家康から扶持をもらった。家康もまた各地から優れた大工を求めた戦国大名のひとりであった。宗広が一族を連れて江戸に下ったのは慶長五年のことで、十年には増上寺山門の棟梁を勤めた。やがて宗広は日光東照宮の「寛永の大造営」惣棟梁という最高の地位を得る。
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