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| 布引ダムの話[その1] -百年前のニッポンと技術者たち- |
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新神戸駅に着いたのは夕方の六時に近かった。小雨が降っていた。編集子は迂生のためにホテルのフロントと掛け合い傘を借りてくれた。恐ろしく多忙な男だが、心遣いを忘れない。寛大でもある。梅雨のさなかに傘も持たずに旅行する迂生の迂闊さを咎めない。われわれは食事のため街に出た。雨足はますますひどくなった。やっとホテルに帰り着くと編集子はさっさと部屋に入り寝てしまった。
迂生はなかなか寝付かれない。雨が止まなければ、明日は雨中のダム工事現場見学になる。眠れぬままに神戸のことを考える。神戸事件が浮かぶ。慶応四年(明治元年)に起きた滝善三郎の切腹の事件である。
布引ダムは水道のためのダムである。今日の日本の都会では水道はあって当たり前である。ところが、調べてみると、布引ダムは長い生みの苦しみの後に誕生している。神戸の水道の布設そのものが、大変な難産だった。最初に水道の設計プランをつくったのは、ヘンリー・S・パーマーというイギリスの軍人である。その後に登場するのが、やはりイギリス人のウイリアム・バルトンという人である。現在の布引ダムを設計・施工したのは佐野藤次郎という日本人技術者だ。最初の計画からダムの完成まで十五年の歳月が流れた。その間の紆余曲折を見ると、それはまさに明治という変革期の苦難を象徴するものである。たった一つの小さなダムではあるが、そこには旧時代から新時代へ移り変わるということがどのようなものか、如実に物語っているのである。明治以来、この国の辿った歴史的運命とそれを形づくってきたもののことを考えないわけにはいかない。
明治は、日本が近代化、西洋化へ向かう新時代だった。とすれば、いわば旧時代の掉尾(とうび)を飾った事件が神戸事件であった。一人の武士が、外国の圧力に屈した為政者の頼みにより切腹した。このとき、一つの時代が終わり、もう一つの時代が始まった。鎖国のなかで、築き上げ、磨き上げられてきた一つの生活態度が、切腹という惨劇の形で、新しい文明の前に終わりを告げたのである。
『赤磐(あかいわ)郡誌』によれば、事件のあらましはこうだ。慶応四(一八六八)年正月、備前岡山藩の老臣日置帯刀(たてわき)忠尚が率いる兵隊四百五十および大砲方が三宮の森林に差し掛かった。突如として先頭に叱咤の声が起こった。フランス海軍の水兵が二名、行列を横切ろうとしたのを制止する声だった。また、浜側から上がってきた米国海軍の水兵が、第二砲隊と第三砲隊の間を横切った。ほとんど同時に山側からイギリス海軍の水兵一名が、手に拳銃を持って、第三砲隊の先頭に現れ、威嚇の態度を見せた。
隊士は怒って「斬り伏せよ」の命令と共に、長槍を振るって腹部を突いた。仰天した水兵は民家に逃げ込み、海岸に逃れた。
沖に停泊していた外国軍艦は、陸戦隊を上陸させ、神戸居留地付近の市街を占領し、神戸港にあった六隻の船舶を拿捕(だほ)、次の三項目の要求を突きつけてきた。
一、「天皇の政府」より書面をもって陳謝すること。
二、今後再びこのようなことの起らぬことを保証すると言明すること。
三、責任者は、公使館附き士官の立会いの上にて、死罪に処すること。
二月二日、備前藩に断罪の御沙汰書が下り、翌三日、家老池田靭負(ゆきえ)より次のような御請け書が提出された。
一、一軍の統率者日置帯刀は謹慎。
二、発砲号令の者は割腹を命じ、五日以内に罪人を兵庫に送致すること。
ところが、なかなか罪人が決まらない。
岩倉具視の手紙にこうある。
「あたら、家臣をして過度期の犠牲たらしむるは、藩主の忍び得ざる所、外人の無礼を問うあたわざるこの場合の苦衷は洵(まこと)に察するにあまりあり」
藩主の御沙汰書に、「馬前の討ち死に勝り、一人不憫に思い入る」とある。
日置帯刀は遂に意を決し、第三砲隊の隊長だった滝善三郎正信を呼び出し、このことを告げた。滝善三郎は、喜んで主命に服することになった。
慶応四年二月九日の夕刻、正信は辞世を詠んだ。
きのうみし夢は今更引きかへて
神戸が浦に名をやあげなむ
兵庫南仲町の永福寺で行われた正信の切腹のありさまは、その場に立ち会った英国人ミットフォードの『旧日本の物語』に詳しく述べられている。これは、新渡戸稲造の『武士道』に引用されて、西洋キリスト教世界に伝えられた。新渡戸は、当時の西洋人にはおそらくまったく理解を超えていたはずの切腹という武士の死に方を、幾分なりとも西洋人に理解させようと懸命の努力をしている。しかし、新渡戸の渾身の解説にもかかわらず、『武士道』各章のなかで最も理解されにくいのがこの章であろう。切腹ほど日本の固有文化と西洋文化の隔たりを示すものはない。明治の初年、西洋人から日本が遠かったように、日本人からも西洋は遠かった。しかし、明治の日本人はそうした遠さに苦しみつつ、日本を近代化しようと歯を食いしばった。西洋人を高給をもって雇い、その西洋人について学び、やがて、独自の研究を重ね、近代技術をわがものにした。
布引ダムが、日本で初めてのコンクリート・ダムとして神戸に竣工するのは正信の切腹から三十五年後のことである。最初の起案者も英国人、設計者も英国人だったが、最終案をつくり、実際に施工したのは日本人である。三十五年の間に日本人が西洋から学び取ったものの大きさを思わずにはいられない。
神戸に水道をつくろうという声がはじめて起ったのは明治十八(一八八三)年頃らしい。明治十年には外国船が持ち込んだと考えられるコレラが蔓延したくさんの死者が出た。識者は「飲料水と悪疫の関係」をはじめて考えるようになった。明治十一年兵庫県は飲料水取り締まり規則を公布した。しかし、その程度の施策では悪疫の流行は止められず、明治十二年にはコレラが県下一円に蔓延した。
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日本で最初に水道設計を行った
ヘンリー・スペンサー・パーマー
(『近代水道百人』日本水道新聞社より) |
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東日本の玄関口である横浜では、明治十八年、英国工兵隊軍人ヘンリー・スペンサー・パーマー中佐の設計によって工費一〇七万円をかけ、水道を敷設することを決定した(明治二十年に完成)。これに刺激されたのか、一個人が水道布設(正確に言えば飲用水路新設)許可願いを兵庫県知事宛に提出し、当局を驚かせた。請願者は、三井銀行取締 能勢規十郎。兵庫県当局は、この請願を承認すると、将来神戸区が水道を布設しようとしたときに問題が起きることを懸念した。すぐには許可をせず、提出された計画書を神戸区役所に照会した。
区は、いずれ将来、公費をもって区民全体の水道が布設されることを見通し、そのときに水利権関係のいざこざが起こる可能性があると考えた。そして、県に次のように回答した。
区は、布引の滝の水を引いて飲料水の改良を計画中で、すでに水量水質試験を行い良好の成績を得ている。現在起工の方法や費用の出所などを検討中である。区の計画が実現すれば、飲料水の不便はすべて解決する。したがって、請願にあるような事業は無用のものとなるばかりか、それによって一般引水の計画に支障が出るおそれすらある。請願はご採用くださらないようお願いする。
私設水道計画は葬られた。しかし、こうした請願が出たことによって、それまでは必ずしもはっきりしていなかった神戸区の水道布設意欲が大いに刺激された。
能勢規十郎の私設水道(飲用水路)がどのようなものだったのか今となっては知りようがない。水道料金を徴収して採算を取るつもりだったのだろうか。それなら、料金収入をどう見込んでいたのか、興味がある。当時一般の日本人は、水は井戸を掘ればタダで手に入るものと思っていた。水道をつくるには莫大な建設費がかかる。タダで手に入るものに、どうしてそんな大金をかけるのかというのが人々の考えだった。しかも、神戸には疲弊した農村からどんどん人が集まって来ていた。細民たちは、近代的衛生思想とはまったく無縁な人々だった。
明治二十(一八八七)年五月、折から水道布設のことで大阪に来ていたパーマーを兵庫県書記官牧野伸顕が訪ね神戸水道の設計を頼んだと言われている。パーマーは神戸に赴いて現地を踏査した。そしてすぐに県宛に二通の手紙の形で報告書を出している。
二十一年三月、パーマーから兵庫県に計画書が届いた。県は報酬金千円をパーマーに贈った。計画の大要は次の通りである。
| 一、 |
給水範囲 荒田村を除く、新生田川以西の神戸市街地全域。 |
| 二、 |
一人一日の消費水量は、七九・五五五リットル(一七・五ガロン) |
| 三、 |
給水予定人口十三万一、〇〇〇人 |
| 四、 |
施設 水源を布引渓谷及び再度渓谷とし、濾過池(配水池)は井垣池とする。ここから自然水圧で配水する。 |
| 五、 |
布設費概算 四〇万円 |
| 六、 |
人口増加対策 増加に応じ、北野天神西、西山官林、水揚官林、会化山などを水源として順次開発し、限度二三万人まで拡張する余地を持たす。 |
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