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 [知られざる100年プロジェクト]
  本河内低部ダム
 
-海軍鎮守府仕様の「三化土」-
 
 
伊東 孝(Ito Takashi) 日本大学理工学部社会交通工学科・教授
写真 西山芳一(Nishiyama Hoichi)  

上流側呑口竪坑から堤体を望む

竪坑はダム堤体から50m離れ、内径は10m。ダムの竣工は、明治36年。高さ27.8m・長さ116.3m。設計:吉村長策。
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 長崎市にある本河内低部ダムは、工事中である。工事の目的は、水道専用ダムから洪水調節機能を備える治水利水ダムに変更すること。昭和57年7月に起きた「長崎大水害」を機に、県では洪水被害の防止をはかるため、総合的ダム事業を検討し、翌年から「長崎水害緊急ダム事業」に着手した。内容は、河川改修および既設ダム5基の改修と新設ダム2基の建設である。中島川では、上流の本河内高部ダム、西山ダムについで、三番目におこなわれているダム改修工事である。

しかしダム自体が、布引ダムに次いで、わが国で二番目に古い重力式コンクリートダム(高さ12.4mの桂堰堤を含めると三番目)なので、堤体を極力保存するため以下のような工夫がなされている。堤体の上流面にコンクリートを増し厚するとともに、堤体直下にトンネル方式の洪水吐きを設ける、わが国でははじめての方式である。これだと、ダムの外観や景観の変化を最小限に抑えられる。すでに工事を終えている本河内高部ダムや西山ダムと比較すると、違いは明瞭である。

しかし今回本稿で書きたかったのは、以上の内容ではなく、工事中に発見された地元で「三化土」と呼ばれている三和土ないしタタキ材料についてである。工事を監督している現場所長の布施弘道氏や副所長の龍博志氏によると、ダムの右岸頂部上流側にもみられたが、主に堤体の河床岩着部と岩盤掘削部の間詰めに用いられていたというのだ。場所によって差はあるが、30cm~1.5mの幅と25mの深さで詰められていた。

河床岩着部と岩盤掘削部の間詰め三化土(左岸上流部)

三化土は、セメントが高価なため、それほど強度を要しない部分に用いられた。現地では、既設洪水吐きの内部とダム下から続く階段の蹴上部にも三化土が使用されている。 クリックで拡大画像を表示

「三化土」という呼称もはじめてである。軍艦島にいったときは、明治期の護岸や擁壁は天川(あまかわ)混凝土でつくられているとの説明を受けた。材料は土と砂利と石灰で、見た目はタタキと同じであった。ちがいは、赤味がかった土が使用されていること。長崎関係の土木遺産に詳しい長崎大学の岡林隆敏先生に問い合わせてみた。答えは明解であった。「三化土」「三和土」は同じもので、関東でいうタタキ(=三和土)は花崗岩風化土を用いるが、長崎では玄武岩風化土(玄武土)を使用するという。玄武土には、赤味がある。「天川」の語源は、マカオ、アモイからの伝来説もあるという。

佐世保海軍鎮守府では、明治32、3年ごろから36年まで玄武土の実地使用の試験をおこない、結果は優良と発表している(曽我杢祐『セメント代用土と其用法』早稲田大学出版部、大正15年)。ダムの設計者である吉村長策は明治32年に海軍技師となり、翌年から佐世保海軍鎮守府建設部の建築課長になっている。三化土の研究は吉村の指導によるものと考えられる。三化土やタタキなどは、のちに「セメント代用土」と総称される。

本河内低部ダムには、佐世保海軍鎮守府で開発された近代的な「三化土」が使用されていたことがわかる。(取材地:長崎県)

今回の取材に際し、現地では、前田・西海・武藤JVの協力を得るとともに、代用土の文献は、国立科学博物館の鈴木一義氏の提供を受けた。

 
   
 
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