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 [日本の土木を歩く] 日本を軌道に乗せた人たち
 榊谷仙次郎と南満洲鉄道株式会社 [その26]
 
 
峯崎 淳(Minesaki Jun) 作家

●日満土木建築協会の設立へ

昭和7年は政党政治が壊滅的打撃を被った年である。この年を境として日本は軍国主義に傾斜していく。そのきっかけをつくったのが、5月15日に起きたテロだった。陸海軍の若い軍人十数人が首相官邸に犬養毅首相を襲い致命的重傷を負わせた。犬養はその夜死去した。

5・15事件の背景には財閥の反社会的な利潤追求と、それと対照的な農村の疲弊があった。事件の首謀者であった古賀清志(海軍中尉)は兵農一致の富国強兵策を唱え、農本主義者の橘孝三郎を指導者と仰いでいた。北一輝や大川周明ではなかった。

事件後、次の首相を誰にするかを巡って、軍部と政党の間でいろいろな思惑が絡み合い、せめぎあいがあった。結局、犬養の後継者と目された政友会の鈴木喜三郎は外され、海軍軍人の齋藤實を元老西園寺公望は選んだのである。齋藤はすでに80歳だが、明治末の西園寺内閣で海相であったから、気心は知れている。当初西園寺は、政党内閣が凶弾によって倒れたのであるから、政党人を後継者にすべきだと考えていた。温厚穏健な人柄とは言え、軍人を選んだことが、政党政治の破壊につながって行く。露骨な利権漁りをし、票を買うことで選挙に勝つという政党の腐敗に国民が怒っていたことが、軍部の横暴への道を開く。

さて、仙次郎は松花江の大鉄橋工事の入札で間組に惜敗したものの、相変わらず忙しい。天図鉄道(吉林―会寧線)の入札を56万円で落札した。

11月21日。仙次郎は急行ハトで奉天に向かう。車中に?鐸(かんだく)氏も乗り合わせていたので、満洲国国務院に出願する指定請負人の選考、請負人協会の設立などを相談する。?鐸氏は日本語があまり得意ではないので、筆談で願書の文案を練り、奉天に着くころには、シナ人にもわかる文章ができあがった。日満土木建築協会をつくることを申し合わせて奉天で別れる。

11月22日。本日、奉天分会で座談会(会議)を開催するので、吉川、上木両君と打ち合わせする。今井と一緒に奉天公署(奉天省を統治する行政機関)に行き、参穆官と三人で話す。奉天公署でも指定請負人制度を設けられること、満人業者の有力者を養成することについて打ち合わせをし、本日の会議に出席してもらうことにする。4時から大和ホテルで会議を開く。来賓25人、業者40人、協会5人、計70人。奉天省より臧式毅省長、民政部総長趙氏、奉天市長閻傅紋氏の3人、市政公署より5人、その他25人が加わり、仙次郎が議長となって、会議のテーマを配って意見の交換を始める。テーマの第一は奉天省で指定請負人を設けること。第二に日満両業者を指定請負人に採用すること、第三は日満土木建築協会を設置すること、第四は無謀競争入札を取り締まること、第五は労力募集費または労働賃金を統一すること、その他を協議したが、満洲国側の意見はあまり出ず、主として仙次郎が五つのテーマそれぞれについて説明し、満洲国側に十分に認識させる努力をした。仙次郎は、土木建築事業は国家建設の重要事業であるから、それに従事する土建業者は事業家として信用されねばならないし、業者の方も旧来の請負方法を改め、大陸的な新請負方法へ前進すべきである、とかねてからの持論を述べた。これに対し、奉天公署の楠田氏が意見を述べ、小ノ木顧問も意見を披露した。会議は7時半に終わり、晩餐会に移った。テーブルスピーチも続々出て10時に解散した。初めての工事座談会(会議)としては成功だった。

翌日、仙次郎は金井章次を訪い、日満土木建築協会を設置したいと思っていると話した。金井は、それは結構です、満人業者を指導して日満両国人が握手して、新国家の建設に協力することは誠に結構です。各産業、工業、商業でも土建のような考えを持ってもらったならば日満両国間に非常に強い絆ができる、と金井は喜んだ。仙次郎は金井に、閻市長(閻傅紋奉天市市長)には思い切ったことを言ったので、市長は多少気を悪くしたかもしれない。お会いの節はよろしく言ってくれと頼んで、長春行きの急行に乗った。

長春(新京)では軍経理部へ行き佐野経理部長を訪う。杉浦主計、原田技師と三人で懇談し、明日の座談会にぜひ出席してほしいとお願いした。国都建設局に行き、近藤、結城両氏に会い、国都建設局の将来の事業について話を聞く。関東軍の岡村(寧次)参謀(当時参謀副長)に面会し、土木事業の現状について説明、日満土木建築協会を設立したい旨を話す。岡村は、仙次郎を武藤(信義)日本帝国特命全権大使に紹介してくれた。武藤信義は陸軍大将、5・15事件で参謀総長を辞任したが、すぐ満洲国駐在特命全権大使(関東長官を兼務)となる。仙次郎が土建界の改善統一、労働問題などについて持論を話すと、武藤大将は立って不動の姿勢で傾聴し、大いにやってもらいたい、と激励した。20分ほど立ったままで話をした。

11月25日。仙次郎は関東軍に小磯(国昭)参謀を訪う。日満土木建築協会を設置し、両国家同業者の融和提携、満洲土建業の向上進歩を図りたいと話すと、小磯は、満洲国の土建は年とともに多忙となるのだから、強力な業者をつくってもらいたい、と言った。労働問題も年とともに困難さを加え、賃金も暴騰してくるから、満洲の労働者の賃金の統一も考えねばならない、と仙次郎は答えた。小磯参謀は深く頷いていた。小磯は仙次郎とこれまで何度も会議で同席していたので話がよく通じ、今日の話を諒解するのも早かった。

座談会(懇談会)を開催する。

来賓は大村(卓一)交通監督部長、藤根寿吉交通局長、佐野博士、軍経理部杉浦高級部員、竹内民政部長、金辟頭市長、民政部次長、藤田前経理部長、その他に鄭国務院総理の代理、総務長官駒井氏の代理など21人、業者45人、協会から11人、合計87人が出席した。テーマは、第一に日満土木建築協会の設立、請負業の改善統一、土木建築工事用機械・器具・資材の統一機関の設置、労働使役条件および賃金の統一、工事施工方法など、その他として鉄道工事の警備についても話し合った。会議は4時から7時まで3時間にわたった。協会案を一応説明し、諸氏の意見を徴したのである。政府側からも相当の意見が出た。とりわけ、日満土木建築協会を設けて、満支人業者の向上進歩を図り、日満業者が渾然融和提携するという考えは、新国家の建設上欠くべからざることとして非常な賛成を得たのである。

仙次郎は、大倉組の門野重四郎が東京へ帰るというので見送りに行く。門野は仙次郎には打ち解けて、満洲は事変後初めて来たが怖いところだねえ、と本音を漏らした。仙次郎は、そうですか、そんな感じがしましたか、と答えるしかなかった。門野の口ぶりから、きっと奉天、新京(長春)で関東軍から冷たい扱いを受けたのだろう、と察した。内地から軍のお見舞いに有力な経済人が来ても、利権漁りに来たかのように疑いの目で見られる。満洲で何か事業を興し軍と協力したいという考えがあっても、軍や満洲国の人たちはその気になってくれない。内地から来た人は大抵門野のような気持ちになり、満洲は再び来るところではない、と思って帰って行く。先頃来た三井、三菱などの有力者も関東軍を訪問し、いずれもほうほうの体で帰っていったように聞いていた。こういう人たちが東京で集まるたびに、満洲は怖い、行くところではない、軍人が威張っている、と話すので、人々は満洲なんかへ行くのは真っ平だ、という気持ちになる。満洲と日本は渾然融和どころではない、氷炭相容れざるの状態に進みつつある、と心ある人たちは心配している。建国10か月にもならないのにこんな空気では仕方がない、と関東軍に反省を求める人も相当にいる。仙次郎らも座談会を開くたびに、この日満両国の上層の空気を緩和すべく努力している。

5・15事件の首謀者たちがそうであったように、軍の若手将校の間には、反財閥の気分が蔓延していた。農村が疲弊し窮乏の極に陥っているのに、財閥はたとえば、金輸出再禁止政策を見越してドルを買い込み、禁止になってから高値で売り、巨利をむさぼっていた。このありさまを大ジャーナリストの馬場恒伍は、「金輸出再禁止で何千万円も儲けたのは財閥である。平生最も愛国者面をしているのはこの手合いである」と非難した。テロに走った若い将校たちや民間人に国民の同情が集まった。国を売って懐を肥やす財閥や党利党略のため足の引っ張り合いに明け暮れる政党政治に嫌気がさしていた人々は、一陣の清風が吹きこむ思いがした。5・15事件の被告に対する減刑運動が起きた。昭和8年末までに100万通を超える減刑嘆願書が齋藤内閣に寄せられた。中には小指を切り落とし、落とした指を封筒にごっそり入れて送ってきた農民のグループもあった。

建国当初の満洲では、「五族協和、王道楽土」という石原莞爾らの唱えたスローガンに沿って真剣に国家建設に参加する人々がいた。仙次郎も日満土木建築協会の設立を考え、精力的に座談会を開催して啓発に務め、明年度設立を人々にはっきり認識させた。仙次郎自身、これが昭和7年に協会が行った一番大きな仕事だと言っている。

年も押し詰った12月28日に満鉄に出かけ、佐藤応次郎と田辺に会って年末の挨拶をした。今年度は600km以上の鉄道を敷設した、今後は毎年1千km以上を五箇年継続で敷設する。1km10万円と見て5億円。請負は多事多忙であるからしっかりやってもらいたい、と二人は言った。製鉄は1箇月1万tの生産、年12万t。橋梁工事は嫩江、呼蘭もある。その他陸軍の工事がたくさんある。明年度は本年度の二倍の仕事があるものと思い準備せよ、と。工事量をあらかじめ知らされたことはありがたかった。村上理事、羽田所長にも挨拶する。村上理事は、協会がなにもかも協力してくれるので満鉄は安心だ、国家のためますます精を出してもらいたい、と激励してくれた。

榊谷組の昭和7年の決算が上がってきた。松花江の大鉄橋工事は取れなかったが、組の業績は上々であった。岡田、菊池、堀、今村、佐藤、末松、藤田、真鍋、片岡などを呼び、決算の結果を報告する。請負総額250万円、決算額225万円、純利益は1割以上で相当の配当ができる。「ずいぶん苦労したが、結果は報いられた。組創立以来の成績で、しかも工事成績も各組中で最も良好で経営も同様であった。これは偏に諸君の献身的努力による。明年度はなお一層良い成果を挙げねばならぬ」と話して、仙次郎は組員にそれぞれ表彰状、通帳を渡した。午後は組員に決算書を自由に閲覧させ、協会に出かけた。

 
   
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