文・伊東 孝 日本大学理工学部土木工学科・教授  写真・西山 芳一


 表紙写真をご覧になって、またどこかで地震が起きたのかと思われた方もいたにちがいない。写真は、神戸港にある「震災メモリアルパーク」である。一九九五年一月におきた阪神・淡路大震災の被災状況を後々まで残しておくため保存された。過去につくられたものを遺産として保存した例はいろいろ見てきたが、このような被災状況を保存した例はめずらしい(同様なものに、世界遺産の広島原爆ドームがある)。保存のあり方としても、意義深い。場所も、神戸港の発祥の地であるメリケン波止場というのもよい。

 阪神淡路大震災が起きてから一月後の一九九五年の二月はじめ、わたしも神戸を訪れた。都市計画家としてまた土木技術者として、被災地の状況を見ておきたかったからだ。もう少し早く訪問したかったが、調査団やボランテイア活動の邪魔をしたくなかったので、一月待った。大阪から電車にのって、車窓の風景を見ていると、被災地に近づくにつれて崩れた家やブルーシートのかけられた屋根がだんだん目立つようになり、緊張感も高まってきたことを思い出す。火災のおきた長田区を歩いたときは、足元を灰が舞い、一月後というのに焼け跡の臭いが強く鼻についた。

 あれから五年。神戸はどのように復興したのだろう。中でも今回は、被災を受けた近代土木遺産は、どのようになっているのだろうか、という問題意識で現地を訪ねた。

 近代土木遺産の被災状況については、土木学会の土木史研究委員会がシンポジウムの報告「近代土木遺産の耐震安全性をめぐって」(馬場俊介・神吉和夫)をまとめている(『土木学会誌』一九九六年十二月号)。その中に、「大きい被害を受けた近代土木遺産」として会下山(えげやま)隧道・羽衣橋・ニテコ池貯水池の三つを、「被害の小さかった近代土木遺産」として武庫大橋・和田旋回橋・布引貯水池ダムなどをあげている。これを手がかりに歩きまわった。

 現地では、さまざまな修復事例や保存事例を見ることができ、ある程度、課題も整理された。それは、土木遺産の機能と構造を復元することは方向性と課題が見えてきたが、従来の機能とはちがう形で土木遺産を利活用するには、知恵と工夫、そして創造性を必要とすることが実感できた。

 貯水池の護岸が崩れ、シンボルであった取水塔の一部を損傷したニテコ池は、塔屋は無事だったが、場所をかえて新たに復元された。ニテコ池の下に広がる建て詰まった家並みを見て、土堰堤が崩れなくて本当によかったと思った。

 修復事例としては、布引貯水池ダム・和田旋回橋・武庫大橋・大輪田橋などがあげられる。中でも興味深かったのは、折れた親柱を橋の袂に展示していた大輪田橋である。説明板もあり、あらためて橋を見直せば、高欄やスパンドレル(アーチの壁面)・リング石などに、震災の傷跡をみることができる。

 旧湊川の付け替え工事で掘られた会下山隧道は、隧道自体の被害は少なかったが、デザイン的に特徴のあった洞門部分は、斜面崩壊にあって全壊した。兵庫県では現在、会下山隧道の拡幅改築工事をおこない、あたらしい隧道を掘っている(裏表紙)。しかし出口部分では旧ルートの用地を使い、洞門部分には旧洞門の意匠をイメージ的に継承しようとしている。残された旧隧道を、公開・非公開をふくめ、どのように保存するか、来年度から検討をはじめるという。

 和田旋回橋のかかる兵庫運河の延長上にある新川運河プロムナードは、再開発事業にからむ土木遺産の保存問題と課題を提示している。木ボードを運河に張り出して広い空間をつくり、水辺との親水性づくりには成功している。しかし歴史の継承性という観点からみると、掲示板などで歴史を顕彰しているが、残念ながらデザイン面での配慮に欠けている。先に紹介したメリケン波止場は、一種の放置保存である。

 欧米の先進国が百年かけて築いたインフラ整備を、日本は高度経済成長期のわずか二十年間で行ったといわれる。二十年後、三十年後には、それらの更新時期がくる。次世紀前半の経済は低成長で、社会は高齢化する。高度経済成長期のようなインフラ整備のできないことを考えると、阪神で行われている土木遺産の修復・保存事例は、ひとつの回答を示すとともに今後の課題をも提示している。

 


[建設業界TOP](Copyright (c) 1999 社団法人日本土木工業協会)