峯崎 淳(みねさき じゅん)





写真の上方が山を削いて開かれた大河津分水路
(提供・北陸地方整備局)

 大河津分水は越後にある。

 歴史のなかの英雄に心を惹かれるものにとって、越後は豊穣な土地である。不世出の英傑に事欠かない。まず、上杉謙信がいる。直江兼続、河井継之助、山本五十六、田中角栄がいる。親鸞も日蓮もここに流されている。だが、迂生の場合、越後と聞いて先ず思い浮かべるのは、長唄越後獅子と良寛和尚である。迂生は、この長唄の名曲が良寛和尚といささか縁があったらしいことを、つい最近知った。

 打つや太鼓の音も澄み渡り、
 角兵衛、角兵衛と招かれて、
 居ながら見する石橋(しゃっきょう)の、
 浮世を渡る風雅もの

 長唄「越後獅子」の唄いだしは、なかなか景気がいいのだが、曲全体からは、何とも言えない哀感が伝わってくる。鄙びていながら優雅で哀しい。言い伝えでは、作曲者の九代目杵屋六左衛門はたった一晩でこの曲をつくったとされている。華やかななかにそこはかとない郷愁のようなものが胸に迫ってくる。

 京都南禅寺の管長だった柴山全慶という人は、よほどこの唄が好きだったとみえ、『越後獅子禅話』(一九六二年刊)という解説本まで書いてしまった。全慶禅師によれば、文化八年(一八一一年)江戸の中村座で初演されたこの唄の作詞者は、元一向宗の僧侶で越後の良寛和尚より禅の教えを受けた人だったという。曲のなかに、越後の浜唄やまりつき唄などが、組み込まれているのはそのためだという。歌詞には、「高い宗教的理想」が示されているそうで、「抹香くさいお経の嫌いな方は、仏前に坐ってこれを歌えばいい」ほどの内容があるというのである。

 良寛(一七五七―一八三一)は越後出雲崎の人である。越後獅子が初演された頃は、国上山(くがみま☆(現在の西蒲原郡分水町)の五合庵に住んでいたようだ。良寛は生涯托鉢の雲水として越後の農民のなかで乞食(こつじき)して暮らした。手まりをつき、はじきをし、若菜を摘み、子供たちと五分の付合いをした。
 一方において良寛は出家の堕落に厳しかった。こんな詩がある。

 白衣(びゃくえ)(俗人)の道心なきは
 猶(なお)尚これを恕(ゆる)すべきも
 出家の道心なきは
 これその汚れを如何(いかん)せん

 良寛は純真だった。その無邪気、無欲、清らかさをこよなく愛した越後の農民たちの人柄のよさも大したものだった、と迂生は思う。
 この良寛に、信濃川の洪水を詠んだ詩がある。

 江流何滔々(川は水位をましてとうとうと流れ)
 回首失臨圻(首をめぐらせば岸も見えず)
 凡民無小大(すべての民は上下なく)
 作役日以疲(毎日の労役で疲れ)
 畛界知焉在(畦道がどこにあるかもわからない)
 堤塘竟難支(堤防はついに切れようとし)
 小婦投走(若い女は機織りの杼を捨てて逃げ)
 老農倚鋤欷(老いた農夫は鋤に縋って嘆く)

 寒温得其時(寒さ暑さもちょうどよく)
 深耕兮疾耘(深く耕し、早々と草を刈り)
 晨往夕顧之(朝早く野良に出夕方にはよく観察していたものを)
 一朝払地耗(ある日洪水がきてなにもかも奪い去る)
 如之何無罹(嘆くなといっても無理だ)

 江戸時代、信濃川は、平均すれば三年に一度の割合で氾濫していた。良寛が生きていた時代、越後平野はほとんど毎年のように洪水が起きた。民衆を愛した良寛は、洪水に苦しむ民衆を見て、ひたすら同情した。良寛は詩人であって、土木家ではなかったから、具体的に洪水を防ぐ術を知らなかった。ただ、そのありさまを詩に書留めることしかできなかった。西蒲原郡月潟村には、三十人もの角兵衛獅子の親方がいてそれぞれ七、八人の少年を抱え、年中諸国をまわっていた、という。良寛は、角兵衛の抱える少年たちが洪水で親をなくしたり、親がいても家を流されたりした者であることを知っていたに違いない。少年たちのとんぼ返りの芸がどのような辛い背景を持つものか良寛は知っていた。従って越後獅子の作詞者は、九代目六左衛門にそうした角兵衛獅子の切ない身の上を聞かせてやっていたように思われる。名曲の郷愁の出所は良寛だったかもしれないのである。
 民衆の側にも、洪水被害者の哀しい唄があった。そのひとつが「蒲原口説き」であり、これはもっと端的である。

 雨が三年旱(ひで)りが四年
 出入り七年困窮となりて
 新発田様へは御上納ができぬ
 田地売ろうか子供を売ろか
 田地や小作で手がつけられぬ
 姉はじゃんかで金にはならぬ
 妹売ろうと相談きまる
 さらばさらばよお父っちゃんさらば
 さらばさらばよおっかさんさらば
 まだもさらばよみなさんさらば
 新潟女衒(ぜげん)にお手々を引かれ
 三国峠のあの山の中
 雨はしょぼしょぼ雉ン鳥は鳴くし
 やっと着いたは木崎の宿よ
 木崎宿にてその名も高き
 青木女郎屋というその家で
 五年五ヶ月五五二十五両で
 長の年季を一枚紙に
 封じられたは悔しゅうもないが
 知らぬ他国のペイペイ野郎に
 二朱や五百で抱き寝をされて
 美濃や尾張のいも掘るように
 五尺からだの真ン中ほどに
 鍬も持たずに掘られたが悔しいなあ

 年貢を取りたてる代官や名主の側も、子供を売るぐらいしか工面の方法がないことを知りながら、水牢や木馬などという拷問を用いた。水牢の刑とは、梯子に身体を縛りつけて水をかけるとか、足に石を縛って水中に沈める残酷なものだった。水牢にあった農民たちの悲鳴を聞いていたたまれず、妻子は身を売って年貢を工面した。信濃川沿いの村々にはこうした話がどこにでも残っている。


 しかし、良寛が生まれるより二十年も前に、洪水を防ぐにはどうすればいいかを考え、ひとつの解決方法を思いついた人がいた。享保年間(一七一六年〜一七三五年)に寺泊の本間数右衛門と河合某が、大川津(現在の寺泊町と分水町の間)から開削し、信濃川の水を直接寺泊海岸に流すことを思いついた。これが、大河津分水の最初の案である。二人は幕府に請願した。しかし、幕府は許可しなかった。請願はこの後も、いろいろな人々や藩によって入れ替わり立ち代わりして少なくとも十一回行われた。終いには、幕府に測量を行わせるところまで行ったが、結局着工までは到らず、明治維新を迎えるのである。

 周辺の村や、長岡藩などに、分水開削に対する強硬な反対意見があったことも、幕府の拒否の理由であったろうが、詳しい事情はわからない。しかし、請願の回を重ねるにつれ、請願する側の分水計画が洗練されていったことも事実である。例えば、天保三年(一八三二年)に福島新田の庄屋新之丞が出雲代官所に出した分水願いには次のようにある。

 「(略)(もし分水路ができれば)御料(天領のこと)の数百ヶ村は年々水害による減石もなく(なり)御普請御入用御下ヶ金とも多分に御益し、信濃川下流の常水を五六合(五六割)と定め候はば川形自然と相細まり、与板より拾余里、新潟まで幅六百間位御座候につき、半分は田畑に相成り、地元村々へ高請仰せつけなされ候はば、四五万石はきっと御増加し、その下中ノ口川・西川も同様、殊に信濃川水減り候へば、阿賀野川二夕川とも水落ち、福島潟干揚がり(干拓地になり)、鎧潟・田潟・大潟等も同様の訳につき、莫大の御利益と存じ奉り候。この儀は含みおき申し上げ奉り候。右の外、川々残らず、干揚げ・付け州が出来仕り候。御料領(天領私領とも)水難遁れ候村高は弐拾万石余にこれ有るべくと存じ奉り候。已上(以上)」

 越後平野の未来をすでに見通しているかのような文面である。

 しかしながら、幕府は、検分の役人だけは派遣したが、近隣の村々から思いも寄らぬ反対が出たのを口実に、結局願いを斥ける。反対の理由は、掘割の土手が切れたら大惨事となる、とか、濁水が海に流れ込んで不漁となるとか、村の真ん中を掘割りされれば、村が二分される、などというものだった。こうした反対にさらに藩の利害が絡んだ。長岡藩は、洪水のたびに万石単位で収入を失っていたが、新潟港から毎年八千五百両の役銭を得ていたから、信濃川の水量が減って舟運に障りが出ることを恐れた。当時、信濃川は河口から六〇キロ上流の長岡まで、四百石積みの川船が毎日通うという運漕の要路でもあった。しかし、天保六年と天保十一年に新潟港で抜け荷(密輸)が発覚し、幕府は新潟港を長岡藩から取上げ、直轄地とする。



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