![]() 突如陥没した自在堰 |
考えてみれば、災害の心配をせずに人が住める土地などどこにもありはしない。険しい山と急流と多雨の気候。洪水。台風。地震。噴火。この国の歴史は、ありとあらゆる自然災害に苦しめられた記録でもある。われわれの祖先は、住みにくい国をさまざまな土木の工夫で、うまくいなして命をつないできた。今日だって、地震を防ぐ技術をわれわれは持たない。だが、確実に起きるといわれる大地震が首都圏を襲ったら何が起きるか、本当のことは誰にもわからない。
明治になって土木技術は格段に進歩した。機械と動力により大きな工事ができるようになった。それまで不可抗力として諦めていた数多の自然災害も防ぐことが可能になった。洪水がその一つである。
大河津分水は、北越の洪水の問題を一気に解決した。今日、信濃川の氾濫を昔のように心配する人は少ない。大河津の水路のおかげで洪水を海に流すことができるのを知っているからである。今、大河津の水路は毎秒一万一千立方メートルの洪水まで海に流す能力を持つとされている。
大河津分水堰がつくられる過程をたどってみると、過ぎ去った時間の向うに浮かび上がってくるのは、それに携わった大勢の人間の姿である。大きな土木工事を可能にするのは、巨大なエネルギーや機械には違いないが、ほんの少しだけ目を凝らして見てみれば、人間の意思と、工夫と、技と、努力こそが土木の主役だということがわかる。人間が必死にプロポーズし、神が処断する、という格言が当てはまるのである。一言でこれを言うなら、土木は実に人間くさい。
大河津分水にもたくさんの人間が登場する。勝者もいるが、敗者もいないわけではない。世間は勝者にのみ目を向け、称えがちだが、迂生は敗者に惹かれる。成功は仕合わせなことだし、讃美されて当然だが、失敗のなかには、人間的な、普遍的ななにかがある。
今回は、そうしたことを考えながら大河津分水を歩いてみた。
古市公威は、土木学会初代会長時代に行った講演のなかで述べた「本会の会員(つまり土木技術者)は、指揮する人、即ち、将に将たる人である」という言葉によって有名である。パリのエコール・サントラール(中央工科大学)を欧州の秀才に伍して専門領域四一人中二番の成績で卒業した古市は、内務省技監、帝国大学工科大学学長、逓信省総務長官兼官房長、などを経て男爵に叙爵されるという華麗な出世を遂げた。
この古市は、明治十五年から十八年まで新潟で信濃川の治水工事に携わっている。明治十九年に政府が始めた信濃川堤防改築工事は、古市の立案によるものだと言われている。この計画には、大河津分水は入っていない。計画の基本とした信濃川の高水量は、毎秒一八万立方尺(約五、〇〇〇立方メートル/毎秒)であった(どのような計算で出したかは分からない)。明治三十年の「横田切れ」と呼ばれる大洪水で、この計画は批判を浴び、大河津分水が再び登場することになる。
古市の後を受けて、信濃川に関わったのは沖野忠雄である。沖野は、古市と同年の安政元(一八五四)年生まれ。パリのエコール・サントラールでは古市と同期で、卒業時の成績は専門領域四一人中二一番であった。
同じ学校を卒業し、似たような出発をしながら、この二人の明治人はきわめて対照的な生き方をした。
古市は晩年、「余は学者にあらず、実業家にあらず、技術者にあらず、色彩極めて分明ならざる鵺(ぬえ)的人間」で、「学者本来の希望するところはその学問を以って終始を一貫するにありといえども、余の如く諸種の方面に関係するを余儀なからしめたるは、けだし時代のしからしむるところなり」と述懐している。
沖野は、三十歳から六十八歳まで内務省にあって、河川と港湾の工事に心血を注いだ。沖野の伝記作者真田秀吉は、沖野を「我が国治水・港湾の始祖であって、その発達の指導者であった。また、工事の機械化の元祖でもある」と書いている。
内務技監を退官した沖野は、「俺は技師として恥ずるところなきだけの仕事をして来た」と親しい者に打明けている。
原田貞介の提言を入れ、大河津分水の計画を英断を以って現在の形にしたのは、この沖野忠雄であった。
迂生は、沖野忠雄に明治の優れた日本人がもっていた爽やかさを感じる。沖野は、金銭や名誉に極めて淡泊だった。大阪築港の功労に報いんがため、大阪市は数万円の金を沖野に贈ったが、沖野は遂に受取らなかった。
趣味はもっぱら読書で、暇があれば本を読んでいた。愛煙家だったが、紙巻は吸わず、もっぱら葉巻で、それも銘柄が決まっていて、その銘柄以外は吸わなかった。酒は嫌いで、飲まなかった。
明治三十一年に内務省に入った技師片山貞松は、沖野を回顧して書いている。
「博士(沖野のこと)は人格高潔の士であった。一点の私心なく、造次顛沛(ぞうじてんぱい)(かたとき)も国家の公益国民の福利を増進することを忘れず、その労を惜しまず、技術の研鑚、後輩の誘掖(ゆうえき)(みちびきたすける)も常にこの根本観念の下に実践躬(きゅうこう)の模範を示し、人材を養成し、また国家の財政を考え、事業の緩急を量りその調和を保ち、いかなる強硬なる要望あるも、その事業を起こすことが国家財政上不利益なりと信ずるときは断固として排斥せられた。されども、いったんその事業が国家のため有利にして、済民の方策たるを思うときは、法規を顧慮するの暇なく断行せられた。
![]() 分水路と信濃川本川関係図 |
淀川改修に当たり、その計画予算に記載なき長柄運河を開削して会計検査院よりその違法たるを詰られたとき、技術上その最善の方法たるを披瀝せられたるにより、検査院は博士の人格に免じて不問に付すことにした。
庄内古川の改修にあたり、法理上その成立困難なりと異論を挟むものあるや、大声叱咤して事業はかくのごとくすることが最善の方法である、法規を訂正せよ、とて遂にその業を成し、幾千町歩の湿地を良田に美化したこともあった。
また、技師を帝大に通学せしめ、学理の蘊蓄(うんちく)を受けしめたるがごとき、いやしくも国家有利の事業であり、国家の人材を造るにおいては眼中法律なく規則なく、法規一点張りの議論に耳を貸さなかった。
およそ河川改修は、常に政党の要望熾烈にして、技監に懇願しきりだった。この時代、工事をするしないの決定権は技監にあった。
沖野の故郷にある円山川は、累年洪水を起こし、氾濫すれば豊岡町を没し、城崎温泉を浸すことから、郷里出身の技監たるを頼み、年々改修の陳情盛んなりしも、国家財政の得策とするところにあらずとて、遂に聴許しなかった。沖野が退官して二年目にやっと工事が行われた」(今日の読者のため、勝手に一部章句を変更した)。
沖野の在任中、汚職事件などは一つも起きていない。
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