
すっかり様子の変わった街並み。広島も今や超高層ビルの町である。意匠を凝らした超高層には関心がないよ、と古女房のような電車が通りすぎる。そのよそ行きでないところがよい、なじんだところが実によい。
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明治五年新橋・横浜間鉄道開通。同十五年新橋・日本橋間鉄道馬車開通。下って同二十八年、かつての京(みやこ)、京都に電気鉄道開通。明治から昭和戦前期にかけて、路面電車は都市の近代化に不可欠の文明の道具だった。
明治二十一年東京市区改正条例公布、同二十二年東京市区改正設計告示。ここから我が国の近代都市改造事業が始まるのだが、その眼目の一つが街路の拡幅だった。何故街路の拡幅なのか。当時の馬車、自動車の数はとるに足らない。
江戸の町の道は狭かった。車輛交通の伝統がなく、物資は掘割運河で運ばれていたから、今様に言えば道は歩行者天国だった。城下町ではメインストリートでも幅四間、大都会の江戸でも通り町筋の十間(田舎間)が特例の最大値だった。賑やかで、しかし、騒音はなく、道は都市の極めて気分のよい道具だった。しかし、文明が来ればこの道具に連綿としているわけにはいかない。
街路の拡幅は路面電車という新しい道具を受け入れるためになされたのだった。鉄道馬車が可能になったのは既に明治六年、幅十五間の銀座通りが出来ていたからで、京都に電車が走ったのも街路拡築事業のお蔭である。
この拡幅された街路を使って、さらに新たな道具、地下鉄が導入される。昭和二年上野・浅草間、同九年新橋まで開通。こうやって都市は発展のため交通機関という道具を次々と変えてきた。
そして戦後。拡幅された街路でもどうにもさばききれなくなった車を、都市高速道路という道具の導入でさばこうとする。前号に書いた首都高の登場だった。もちろん、地下鉄にも力を入れ、丸ノ内線以来次々に地下鉄が開通する。そして東京はますます発展、肥大化する。
空襲で壊滅的な被害を受け、戦災復興の区画整理を実施した全国の都市は、東京の後を追おうとする。明治以来の中央集権の習い性だ。大都市になるためには地下鉄をつくり、都市高速を入れなければならない。その結果、主客はいつの間にか転倒して、路面電車のためにつくられた街路から路面電車は排除されることになる。どういうことだこれは、と路面電車が人なら思ったに違いない。
かくしてこの五十年余の戦後で路面電車は街から姿を消した。勝ち組の政令指定都市、北から札幌、仙台、東京、横浜を経て福岡に至る十四を数え上げ、さてどこに路面電車がと探してみると、健在なのは広島一つにすぎない。札幌、東京のそれは盲腸である。地下鉄、都市高速も試みに数えてみるといい。あまりにもぴったりと路面電車、地下鉄、都市高速という道具の有無が都市発展と符合していることに驚くはずである。こうやって我が国の都市は路面電車を踏み台にし、戦後はそれを踏みつけにして発展してきたのだった。
所詮道具なんだから、馬車が路面電車に変わり、路面電車が地下鉄と都市高速に変わるのは、仕方ないんじゃないか、それが文明の進歩というものですよ。しかし、ちょっと待って下さい。交通機関は単なる道具ですか、都市の住民を守り育てる母の如きものではありませんか、と言いたい。
そうやって、発展を追い求めて、使い捨ての道具のように次々と相手を変え、今の女房(地下鉄、都市高速)に本当に満足しているんですか。もしかしたら古女房のほうがよかったと後悔しているんじゃありませんか。捨てた女が本当は子供(市民)には一番良かったんだということに後で気づくことがあるように。

広島の膨張を支える新交通。些かながら駅舎デザインのお手伝いをした。路面電車のように市民に愛される母親のような存在になることが出来るだろうか。
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一度捨てたら取り返しがつきませんよ、捨てる前にちょっと待った、というつもりで、森地茂さんを頭に、昭和六十三年、『トランジットモールの計画』という本を出した。街路から車を追い出して路面電車と歩行者を主役に、都心を再生しようというのがトランジットモールで、ヨーロッパの都市では既に常識になっていた。この本は僕が執筆、編集した何冊かの本の中で、唯一増刷されなかった本で、つまり売れず、以来十三年間に一つのトランジットモールも我が国には出来ていない。
「日本人という民族は優秀な民族だと思うけれど、どこか根本的にまちがったところがあるね」、という中村良夫さんとの昔の会話を思い出しながら、昔の恋人(江戸の道)は無理にしても自分(都市)の間尺に合った古女房を大切に、と言い続けるしかないか。
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