
田邉寛子(たなべ ひろこ) アプル総合計画事務所
先日、東京大学でスペインのカルトラバの作品についての勉強会がありました。建築・土木の景観設計者をめざす私にとっては、大変感銘をうけた会でした。そこで、本誌の編集子と出会ったのが縁で、私の曾祖父である田邉朔郎について一文を書いてみないかとお誘いを受けました。
お酒の席でもありましたので二つ返事で快諾しましたが、それから月日はながれ、そんな約束も記憶のなかから消えかかった十月中旬、依頼の封書が届きました。事が現実となったことで思ったことが、「しまった、快諾するんじゃなかった」ということでした。だって、文章が……。しかし田邉朔郎没後五〇年をすぎたにもかかわらず、朔郎がお世話になった土木分野の広報誌に、子孫が文章を掲載させていただける光栄を逃すわけにはまいりません。頭にはちまきをしてパソコンに向かいました。
はて、なにを書こう? 琵琶湖疏水は朔郎の性格からか、記録がしっかり残されています。その分野で研究されている方や作家の田村喜子女史の小説(『京都インクライン物語』)に私が及ぶわけはありません。悩んだあげく、朔郎の生い立ち、取り巻いた人々、そして晩年の朔朗に焦点を絞ろうと考えました。
朔郎の育ての親は幕府・明治政府の外交官「田邉太一」
朔郎は一八六一年十一月一日生まれ、朔日の生まれですから、朔郎。姉に鑑子がいます。彼女は後に、現在の迎賓館の設計者となる片山東熊夫人となりました。田邉家は徳川幕府の旗本で、元々学者の家系でした。朔郎の祖父石庵は昌平校の教授をしておりましたが、父孫二郎は講武所教授として幕府陸軍の近代装備を担当していました。しかしその孫二郎は一八六三年、はしかで亡くなりました。朔郎が一歳の時です。朔郎の育ての親は、孫二郎の弟太一でした。太一は幕府外国奉行所に勤めていました。そして明治維新後も外交の実績を買われ岩倉使節団の書記官長として参加しました。
後に東大工学部となる工部学校は、岩倉使節団が英国を訪れた際、工学教育の必要性を痛感し、グラスゴー大学のランキン氏に頼んでダイヤー教頭教授をはじめ、他スタッフを派遣してもらって設立されたのは、皆さまもご高承の通りです。その工部学校に朔郎は、太一のすすめで入学しました。戦争に負けた幕府の家臣が薩長新政府の世の中で生きて行くためには、政治ではなく、学問技術の道しかないと、太一は無言で朔朗に教えたのでしょう。
朔郎に琵琶湖疏水をまかされた背景
琵琶湖疏水の逸話として、時の京都府知事北垣國道が四十六歳の時、二十一歳の朔郎に「やりたまえ」とまかせたとありますが、そんなべらぼうなことがあり得た背景は何でしょう。それは工部大学校長の大鳥圭介の太鼓判でした。
大鳥が北垣に朔郎を紹介する際、「田邉太一の甥」と付け加えました。大鳥圭介は、朔郎の卒業論文となる琵琶湖疏水調査のために朔郎を京都へ出張させるにあたり、当時中央気象台長(現在の気象庁長官)をしていた新井郁之助に相談しました。太一、そして太一の義兄である新井郁之助と大鳥圭介は函館五稜郭で共に闘った仲間でした。北垣知事も元幕府旗本の外交官田邉太一のことを良く知っていました、大鳥圭介の保証がなければ、田邉朔郎を起用することは出来なかったでしょう。こうして共にプロジェクトを遂行した朔郎への國道の信頼はいっそう厚く、琵琶湖疏水が完成したとき、自分の娘静子を娶らせることとなりました。
明治の女流作家、三宅花圃
明治時代に三宅花圃という小説家がいました。彼女は「萩の舎」に出入りしており、処女作に鹿鳴館を舞台にした『薮の鶯』があります。その小説を読んで「これくらいなら、私もかけるわ」と処女作『闇桜』を書いたのが同門の妹分、樋口一葉であったとは良く聞く話ですが、実は三宅花圃の『薮の鶯』のモデルは朔郎ではないかと、父と私は考えています(日本文学史においてそんな立証はされていませんが)。
『薮の鶯』の主人公は幕府旗本だった両親をなくし、貧乏に転落した姉弟の松島秀と松島葦男。この二人はどうやら、田邉朔郎と姉の鑑子の境遇と重なります。
というのも、花圃の本名は田邉龍子といい、明治・大正の評論家三宅雪嶺と結婚しました。花圃は田邉太一の子、朔郎の従姉妹です。花圃は『薮の鶯』を琵琶湖疏水工事中の一八八八年に書いています。結末に「松島葦男はその後大学に入り、工学を修め卒業の後、ある一大土木工事を督し、人に名をしらる」と記しましたが、これが何よりの証拠と思っています。
朔郎の存在が、花圃を通じ、樋口一葉に影響をおよぼし、あの傑作が生み出されたとすると……。強引かもしれませんが、壮大なロマンではありませんか。
琵琶湖疏水後の朔郎
田邉朔郎は長生きをしたので、最後の仕事となる関門海峡トンネルまで、戦前の日本の大きな土木事業(水力発電・運河・トンネル・鉄道)には殆どタッチしました。しかし青年時代の琵琶湖疏水の話があまりに有名なためでしょうか、その後のことは忘れられています。
近年、土木学会で再評価の試みがなされてはいますが、外国の賞(英国土木学会「テルフォード賞」など)まで頂いていますのに、一九二三年六十一歳の時、京都大学の定年退官とともに正三位、翌年年功的に勲一等、これが国家が朔郎に贈った全てでした。琵琶湖疏水についてはまったく音沙汰無しでした。
朔郎は晩年、自分の親戚、姻戚たちが中央で活躍しているのに、自分は京都に引きこもってしまったことを残念に思っていたようです。
一九四三年に、従姉妹三宅花圃の夫三宅雪嶺が文化勲章を受賞した時など、「自分は京都の田邉になってしまった」と漏らしたといいます。三百年来の故郷東京を捨てた朔郎の本心だったのでしょうか。
しかし「京都の田邉」だからこそ、京都では大切にしていただいています。琵琶湖疏水記念館が平成元年完成し、京都の朔郎の元住まいにある鉄筋コンクリートづくりの倉「百石斎」(現存している日本最古? の個人住宅用鉄筋コンクリート造。一九一七年築)にあった琵琶湖疏水に関するオリジナル資料は全て保管して頂いています。そして、百年たった今でも、琵琶湖疏水は京都の市民の生活を支える重要なライフラインとなっています。そのことは、子孫として大変誇りに思うとともに、かつ背筋の引き締まる思いがします。
終わりに
高度成長期から古いモノを取り壊し新しいモノをつくり続けてきました。発展を望んだゆえ、まちや中山間地域等の荒廃を進めてしまいました。そのツケが今巡ってきています。
建設業界としては苦しい時代となっていますが、我々の子孫たちに対しても、美しく健全な日本国土を託すためにも、少ないチャンスに誠心誠意尽くす時です。朔郎が工部学校のヘンリー・ダイヤー教頭教授から頂いた座右の銘が思い起こされます。
「Not how much I did, but how well I did」
私も、この言葉を胸に、これからの人生を歩んでいきたいと思います。
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この文章は、朔郎をこよなく敬愛する私の父・田邉康雄の著『琵琶湖疏水にまつわる、ある一族の話』をもとに書かせていただきました。